''【王の葛藤】''

王の葛藤



 明日に備えてもう眠らねば、と考えていた矢先、ドアをノックする音が部屋に響いた。
 音が耳慣れないのはここがサザンビーク城の自室ではないからだ、と思いつつ、入れと声を掛ける。侍従長が、返答と共に姿を現した。
「陛下。トロデーンの近衛隊長と申される方が、陛下に謁見を願い出ておりますが」
「…トロデーンの? いったい何用か」
「お尋ねしたのですが、陛下に直接申し上げたい、と、かたくなにおっしゃいまして。身分証に不審な点はございませんが、いかがなさいますか」
 王はしばし考える。ここは自国ではなく、サヴェッラ大聖堂の、主賓用の控室だ。そして今は、国と国の威信をかけた結婚式の前夜。そのような状況で、長と名のつく立場にあるとはいえ兵士の身分にある者が、他国の王に謁見を願い出てくるなど、そう、前例の多いことではない。トロデ王の正式な使者、というのならともかくとして。立場をわきまえない行動だと受け取られるのが定石だ。
 取り次ぎの臣下は何故、このような行為を許したのだろう。よほど大事な用件を抱えているようにでも見えたのだろうか。
 だが、そのような行動に出た近衛隊長とやらに、王は少し興味が湧いた。臣を問い質すよりも、会ってしまった方が早い。そう結論を出し、王は返答する。
「いいだろう。通せ」
「はっ。…どうぞ、隊長殿。こちらへ」
「恐れいります」
 どこか聞き覚えのある、と一瞬感じたのを、王は禁じえなかった。それは、かつて自分が若き頃に毎日聞いていた声と、ひどく似ていた。そして、『あのとき』のように、まさかという思いが脳を巡ったが、そんなはずはない、とすぐに打ち消す。
 だが。
「このような時刻にも関わらず謁見をお許し頂き、恐悦至極に存じます。トロデーンの近衛隊長を務めております、シェオルと申します。以後、よろしくお見知りおきを。…クラビウス陛下」
 振り返ったそこには、かつて王子が世話になった旅人が、見違える姿で膝をついていた。
「…そなた……!」
 王は驚き、その青年を凝視した。侍従長が不審がる。そうだった。侍従長はあの時あの場にはいなかった。限られた重臣しか、王子の試練の際の事情は知らない。
「陛下?」
「…侍従長、しばし下がっていてくれ。彼とふたりで話がある」
「しかし陛下」
「下がっておれ。心配ならば、扉の前に控えておるがよい」
 穏やかだが、有無を言わせぬ口調で王は命じる。
「…御意」
 侍従長が扉を閉める音を確認してから、膝をつく青年に歩み寄る。
「立ちなさい。…久方ぶりだな、シェオル。まさかそなたがトロデーンの関係者とは思いもよらなんだ」
 失礼いたします、と返答し、シェオルは立ち上がった。そして、勧められた椅子を、長居はしません、と丁重に断る。
「何ゆえあの時、それを黙っておった? トロデーンの危機とわかっておれば、すぐにでも鏡は貸したものを」
「申し訳ありません。我が主君、トロデ王陛下に、きつく口止めをされておりましたので」
「トロデ王が? あの時のことを王はご存じなのか? 確か、城がいばらに覆われていると我が国の使者が戻って報告した折、王と姫の姿がどこにも見当たらぬと申しておったが……」
「順を追ってお話しいたしましょう。…まずは、これを」
 言ってシェオルは胸元のポケットから紅い宝石のついたリングを取り出し、王に差し出した。
「これは…アルゴンハートを使っているな。何故このようなものを、そなたが持っておる? 儀式の折に手に入れた石は、すべてこちらに渡してくれたのではなかったのか?」
「いいえ、それはその時の石ではありません。これは僕の父が、生前、母に贈ったものと聞き及んでおります」
「アルゴンハートを手に入れること自体は、サザンビーク王家の者でなくとも不可能ではないが…この加工様式……この技術は、サザンビーク王宮お抱えの技師にしか扱えぬ、特殊なものだ。真似ようと思っても容易に真似できる技術ではない。とすると、この指輪は間違いなく王家所有のものであるはず。そなたの父は、我がサザンビーク王家ゆかりの者なのか?」
「リングの内側をご覧ください」
「…何か彫ってあるな。…“ウィニアに贈る エルトリオ“……エルトリオ!?」 
 思わず声を荒げてしまう。まさかという思いが脳内を巡る。
「そなた、さきほど、これは父が母に贈ったものだ、と言うたな。まさかそなた、兄上の…エルトリオの息子だというのか!?」
「さようでございます」
 実のところ自分の中ではその実感は薄いのだが、関係者が口をそろえてそう言うのだからそうなのだろう、とシェオルは頭のすみで思いながら肯定する。
「何ゆえ、それを黙って……!」
 つい先ほども、同じ言葉を口にした。なぜ、と、今夜はそればかりが口をついて出る日だ。
「このことを知ったのは、鏡をいただいたずっと後のことですから」
 最初からご説明します、とシェオルは語り出した。
「トロデーン城には、昔から、ある杖が封印されていました。その杖を手に入れようと、城に入り込んだ道化師がいた……それが、当時我々が追っていた、ドルマゲスです」
「なにゆえ、ドルマゲスはその杖を欲したのだ?」
「それは、ある邪悪なものを封じていた杖だからです」
 邪悪なものとは何か、とクラビウスが質問しようとしたのを察したのか、シェオルは手のひらを前に出してそれを制し、「申し訳ありませんが先に全部話させてください」と頼んだ。
「道化師が杖の力を最初にふるったとき、杖はまだ結界の中に在りました。その呪力により、杖は、力を存分に発揮できなかった。そのため、王と姫は、魔物と馬に姿を変えられただけで済んだのです。ですがそのあと、結界から出た杖に呪いを受け、城ごとイバラにおおわれた…。それが、サザンビークの使者のかたがご覧になった光景の、真相です」
「そうであったのか……」
 当時、サザンビークが派遣した者の話では、城の中に入ることはできたが、誰とも会うことはできなかったということだった。否、そこには人影はあったが、どれも一様に植物のようで、動くことも話すこともできなかったのだと。
「そして何故か呪いを受けなかった僕は、王と姫の三人で、ドルマゲスを追う旅に出た。途中、色々な事情で他の三人が加わって、サザンビークに来たわけです」
 王は相づちをうちながら、この旅人がサザンビークを訪ねて来た時のことを思い出す。
「ですが、ドルマゲスを倒しても、それで終わりにはならなかった。杖に封じられていた暗黒神が復活し、それを倒さなければ、城や王と姫の呪いは解けないとわかったからです」
「暗黒神の復活だと!?」
「少し前の、空が赤く染まったあの事象を、王はご覧になられましたか」
「見たとも。あれが関係しておるというのか?」
「そうです。あれが暗黒神ラプソーンです。では、古の時代の、七人の賢者のことはご存じですか?」
「……いや」
「そうですね。我々は世界中を回りましたが、確かに、どこの国にも教会にも、それを知る人も記した文献も、みつけられませんでした。賢者の末裔たちだけに代々伝えられ、彼らがひっそりと、文献や石碑を護っていたんです」
「そのようなことが……」
「暗黒神ラプソーンとは、古の時代、偉大な七賢者の力をもってしても封じることしか叶わなかった、非常に強大な悪です。そんなものを、我々四人だけで倒すことなどできるのか。空に浮かび上がった暗黒城に潜む奴と対峙して、一度は倒したものの、周囲の悪をすべて取り込んで再び復活した暗黒神の巨大な姿を目にしたとき、僕が出した答えは否でした。日々力を増していく暗黒神に、このままでは勝てない。そう判断して、とにかく世界各地を廻って、知恵や力を貸してくれる方々を探しているうちに、竜神族の里にたどりつきました。それが母の故郷です」
 自分がのんきに自国と王子の将来を憂いている間に、兄の息子は世界の存亡に関わっていたということか。しかも仲間と共に見事それを討ち果たし、自国と世界を救ったと。
 王は、あまりな話の展開に、口をはさむこともできずにただ聴いているしかなかった。
「母は、竜神族の娘でした。しかしエルトリオとのことを反対され、その父…僕にとっては祖父にあたる人物ですが、彼に、里へと連れ戻された」
「そしてそれを追って、兄上は国を出たということか……」
「その通りです。父は、本当に強いひとだったようですね。竜神の里への道はとても険しく、我々四人でも、生きるか死ぬかの瀬戸際を何度も繰り返しました」
「ああ。兄上は、とても強いかただった」
 記憶の中の兄は、剣にも魔法にも秀でた、強い男だった。
「我々も、あの暗黒神を倒すために多少は強くなったつもりでした。ですがあの里へと続く異界の道には、この世界とは比べものにならない強さの魔物達が、数多くひしめいていて…我が国の一個師団を送り込んでも突破できるかどうか、というところでした。それでもそこを、我々だけで征かなければならなかった」
「何ゆえ、そうまでして? あの光景は、世界中ほとんどのものが目撃したであろう。各国に事情を話し、協力を要請するということは、考えなかったのか?」
「陛下なら信じて下さいましたか? 大した肩書があるわけでもなく、自分の身分を証明することもできない我々の話を。そして、文献もない、口伝としても伝わっていない、古の賢者たちのことを」
 シェオルの仕える城は呪われた状態で、彼を近衛兵だと証明できる者は誰もいない。ヤンガスは山賊あがりで、本来なら城に入ることさえ難しそうな様相だ。ゼシカのいたリーザス村はサザンビークから遠く、交流がないため、当主の娘であっても、いささか信用に欠ける。可能性のあったのは聖堂騎士であるククールだが、マイエラ修道院に問い合わせたところで、色よい答えが返ったかどうかは怪しい。
「ですから、我々四人で挑むしかなかったのです」
「…そうだな。確かに、そのとおりではある」
「トロデ王に言わせれば、ドルマゲスを追い詰めた時点での我々四人の戦力は、アスカンタを陥落する程度しかないということでした。小国ひとつ滅ぼす程度の力で、あの暗黒神に立ち向かって勝てるはずなど、ありません。もっともっと、力が必要だった。道の途中で見た竜神の壁画のとおり、その先に何かあるかもしれないのなら、力を手に入れられる可能性があるのなら、行かなければならない。そう思ったからです。…申し訳ありません、話がそれましたね。残念ながら父は、里にたどりつくほんの少し手前で、力尽きました」
「兄上は、異界で亡くなっておられたのか…。いつか戻って来てくださると、信じていたのだがな……」
 小国ひとつ滅ぼす程度の戦力。たった四人で。さらりと不穏なことを言ってのけた若者に、クラビウスは薄ら寒いものを覚える。本当なら、なんと恐るべき力か。あえて聴かなかったことにして、重要なことだけを拾って反復した。
「このときすでに身籠っていた母は、恋人を失った失意の中で僕を産み落とし、亡くなりました。僕の処遇を巡っては、竜神族の長老たちの間で、何年も協議されたそうです。結果僕は、竜神王によってそれまでの個としての記憶をすべて封じられ、里を追われました」
 このあたりのことは自分の記憶ではないので、シェオルは、祖父と竜神王にきかされた話の通りに説明した。
「封印とは、一種の呪いなのだそうで、一度受けると、解くまでは、他の呪いをいっさい受け付けなくなるのだそうです。そのおかげで僕は杖の呪いを受けずに済んだのです。…その後どういう経緯でかはわかりませんが、僕はトロデーンの領地内で倒れていました。休暇を終えて城に戻る途中の当時の近衛隊長に運よく見つけられていなかったら、そのまま死んでいたかもしれません。彼が、トロデ王にとりなしてくれ、僕はトロデーン城で小間使いとして働きながら、暮らせるようになったわけです」
「…難儀なことであったな」
 子供の頃からの様々なことが思い起こされたが、それをのみこんで、控えめに「はい」とだけ、シェオルは言う。
「当時、城には同じ年頃の子供がいなかったので、ミーティア姫はことのほか僕を気に入って下さり、遊び相手や側仕えを経て、兵士となりました」
「しかし本来ならば、そなたは王子としてサザンビーク王宮で暮らせる身分というわけだな」
「そうですね。世が世なら、というところですか」
「…私はそれを認めるわけにはいかぬ」
「……クラビウス王」
「兄上が亡くなられていたのは残念だ。しかし、そなたという存在を遺してくれたことには、心から嬉しく思う。不遇を強いられたそなたに、叔父として、なにかしら報いてやりたいと思うのも、偽りのない、本心だ」
 だがそれとこれとは別の話だ、と言葉は続く。
「おそらく誰の目から見ても、我が子チャゴスよりもそなたのほうが、次期サザンビーク王としてふさわしいと思うだろう。だが私がそれを認めては、我が国は内乱になりかねん。残念なことに、不穏なことを考える輩がまったくおらぬというわけではないのだ。私は王として、内乱の種を自ら蒔くような真似はできん。…シェオル、そなたには、すまぬことだが」
 苦々しくそう言い切った王に、若者は、そんなことは何程のことでもないように答えた。
「陛下。僕はサザンビークの王位など望んではいません。玉座など、露ほどの興味もない。これまで通り、トロデーンの兵士として生きていきます。…ただ」
「ただ?」
「姫が、泣いていた。チャゴス王子と結婚するのは嫌だと言って、泣いておられるのです。幼い頃から、国のため、見知らぬ王子に嫁すということを覚悟なさっておいででしたが、旅の途中、王子の人となりを拝見してから、ずっとふさぎ込んでおられるのです」
「いつ、そのような機会が…そうか、共に旅をしていたのだったな。儀式の折、姫も共におられたのか?」
「ええ。王家の山で、翌朝の戦いに備え一夜を明かし、我々が目を覚ました時、王子は馬の姿の姫に乗って、『ご主人様を乗せて走れ』とムチで打ち据えていました。それを止めた我が王をも、打とうとなさっていました。もちろん王子は、その馬が姫で、魔物がトロデ王だなどとはご存じないわけですが、その時の王子のご様子は、とても高貴な王家の方とは思えないお振舞いで、姫はひどく失望なさったのです」
 おそらくそれは本当のことなのだろう。息子の性格をよく知るクラビウスは、その場面が容易に想像でき、眉根を寄せる。
「それでも、少し時が経てば変わって下さるかもしれないと、懸命にご自分に言い聞かせておられました。ですが本日こちらに到着して、再びお会いする機会を得ましたが、王子は、以前と全く変わっておられなかった」
 普段から、息子の性格には難があると感じていたが、あの年まであのままで育ってしまうと、容易には直せない。
「試練の際の助けとなった我々に、ひとこととして、感謝も労いの言葉も下さらなかった。それどころか、王族の式にお前たち下賤の者の席などない、と高笑いされましたよ」
 まあ姫がかわいそうなだけなので別に出席したいとも思っていませんが、と喉まででかかったのを呑み込みつつ、シェオルは話を続ける。
「高貴な身分のかたにはありがちな言動ですし、あの王者の試練の折に、我々は報酬として王から鏡を得ているのですから、礼などいう必要はない、とお思いなのかもしれませんが」
 言葉こそ丁寧だが、暗に、この王子が次期王だなどと笑わせてくれると言われている気がして、王は、いたたまれない気分になってしまう。
「…それで私に、どうせよと? 結婚を取りやめよとでも申すのか?」
「まさか。この結婚は国と国との取り決めです。姫のご意志だけで、まして王のご意志でも、無理を通してどうにかできるものではありません。式はすぐ明日に迫っている。来賓の方々も揃っております。他国へのメンツもあります。我が王とクラビス陛下が話し合われたとて、おいそれと中止できるものではないでしょう」
「ならばどうせよと言うのだ」
 いらつきの隠せない声で王が言えば、冷静そのもので、シェオルは「そうですね、」と切り出す。
「これは僕の個人的なお願いですが、式の後、一度、姫をトロデーンへお返し下さいませんか。理由は、著しい体調の不良、とでも。そして表向きは病状が回復してから、実情は王子が今少し成長なさってから、あらためてお輿入れする…というのでは、いかがですか」
「そのようなことを、私が許すと思うのか?」
「さあ、どうでしょうか。それは陛下の御心うちのことですから。一介の兵士である僕などには、はかりかねます。陛下は一国の王として、国のために、正しいご判断をなさるのがよろしいかと存じます」
 侍従や大臣などがこの場にいたら、無礼にも程があると怒り出したかもしれない。クラビウスにしても、この目の前にいる若者が兄の息子であると知らなければ、そうしていた可能性はあった。
 だがしかし。言っていることは到底承服しかねるものであったが、この若者の得も言われぬ妙な迫力はどうだろう。さきほど王自身が口にしたとおり、自分の息子ではなく、彼がサザンビークの王位を継げば、おそらく、国は安泰といえる。そう感じさせるほどの風格や威厳が、すでにこの青年にはある。
「…ひとつ訊こう。今宵そなたがここに来たこと、トロデ王とミーティア姫はご存じなのか?」
「いいえ。僕の独断です」
「そなたの行為、臣下として主を思うがゆえのことであっても、いささか出過ぎてはいまいか?」
「そうでしょうね。もし陛下が、この越権行為を我が王にご報告なさりたいのでしたら、どうぞご随意に」
「そなたが勝手にしたことと言い張っても、トロデ王も同じく申されたとしても、我が国の重臣たちの耳に入ればそうは思われまい。これは、ともすれば、国と国の和平を揺るがしかねん行為ぞ」
 話がへたな方向に転がれば、待っているのは大国同士の全面戦争だ。暗に、クラビウスはそう言っているのだ。だがシェオルは顔色一つ変えず、柔らかな笑みさえ浮かべて答える。
「トロデーンはサザンビークに叛意あり…と解釈なさるのか。あるいは、兄の忘れ形見のひとつの提案として、陛下の胸ひとつにおさめて下さるか。それはおまかせいたします」
 その丁寧な言葉の端々に何故か寒気を感じ、クラビウスは身震いした。
「…シェオルよ。そなた、何を言っているのか、わかっておるのか?」
「もちろんです」
 平然と、言ってのける。
 知らず握り込んでいた拳が、震えるのがわかる。それを相手に悟らせないように、静かに息を吐き出してから、クラビウスはゆっくりと手をひらいた。
「……もうよい。下がりなさい。話は終わりだ」
 提案は出されたのだ。あとは、こちらが選択するだけだ。
 数秒の沈黙のあと、シェオルが、ひとりごとのようにつぶやいた。
「僕は…利用できるものは利用する。それだけです。知力も、機会も、交渉術も、…そして武力も」
「…脅すつもりか。いい度胸をしている」
「とんでもない。手持ちのカードを披露しただけですよ」
 よくもぬけぬけと、とクラビウスは思う。それが脅迫以外のなんだというのか。
「…では僕はこれで失礼させていただきます。夜分遅くの謁見、まことに感謝いたします」
 クラビウスの返答を待たずに、シェオルはとても形の美しい礼をして背を向け、部屋を出て行った。
 あとには、居心地の悪い敗北感が残された。

(……同じだった)
 出奔する前夜、兄エルトリオは自分の元に来て、彼に告げた。
『自分はこれから一度国を出る。愛した女を、追うために。だが必ず帰ってくる。彼女を連れて。その時はお前も、祝福してくれ。…だがもし、万が一、私が戻れなければ、その時はこの国を頼むぞ。父上には…いや、他の誰にも、私が行くことを告げるな。……またな、クラビウス』
 覚悟を決めた、笑顔だった。二十年という歳月が流れた今も、忘れていない。
 兄の部屋には、ひとつの箱が残されていた。彼はすでに継承の儀式を終えて、持ち帰ったアルゴンハートを将来の妃に渡すべくリングに加工してその箱に納めていたが、中身は空だった。おそらく兄はそれを、決められた婚約者ではなく、愛した女に渡すために、持って行ったのだ。あるいはもうすでに、彼が愛した女の手に渡っているのだろう。
 兄が妃を迎えればいつでも見られると思っていたから、クラビウスはそのリングをまじまじと見るようなことはなく、その形を覚えてはいなかった。金属部分にも特殊なものを使うため、リングの内側に文字を掘って固定させることは、サザンビーク王家お抱えの技師にしかできないことだと記憶している。工房に問い合わせれば、当時エルトリオがどう指示したかが記録に残っているかもしれない。
 そこまで考えて、クラビウスは思考回路を巻き戻す。今、考えるべきことは、そんなことではなかった。式の後のミーティア姫の処遇を、いかにすべきか。
 おそらくはシェオルが言ったように、機が満ちるまではトロデーンに帰すのがいいのだろう。だがそれで、あの息子が納得するか。そして、国の威信はどうなる。
 …国の威信。そんなものは、もしかしたら、あの兄の忘れ形見の前では、塵にも等しいものなのかもしれない。
 さっきシェオルがなにげなく口にした、彼らの戦力。道化師がどれくらい強かったのかは、当然、クラビウスにはわからないが、鏡を借り受けに来た時点での戦力は、わずか四人でアスカンタを陥落できるほどだった、と言っていた。
 ならば暗黒神なるものを倒し得た彼らが、我がサザンビークに狙いを定めたら。一体、どうなるのか。
 暗黒神がどの程度強いのかは、わからない。だが、あの禍々しい空に浮かび上がった、形容しがたい異様な存在に、彼らは立ち向かい、そして勝った。それだけが明確な事実。
 姫の身の振り方について、もしこちらが申し出を受けなければ、シェオルはおそらく、サザンビークに刃を向ける。クラビウスは、そんな気がしてならなかった。出自がこの国であろうと、王家直系の血を引いていようと、彼には関係がない。あれは身も心も、トロデーンの兵士だ。主君と国とを第一に考え、ひたすらに忠義を尽くす、屈強の戦士。
 そして彼が呼びかければ、他の三人も必ず従うことだろう。生死を共に戦いぬいた、仲間なら。おまけに…というよりもこちらが主となる事情だろうが、王子が度を越して尊大な態度であったため、心証はかなりよくないはずだ。
 クラビウスは大きくため息をついた。今夜だけで何度目だろうか、と思いながら。
 疲れているのだろうか、思考回路が負の方向にばかり向かっていると自覚する。
 恐怖にかられたか。
 …何への恐怖だ。
 否。誰への?
 それほどに似ていた。エルトリオとシェオルは。
 愛する女のために国を出た兄。
 そして、護るべき女のために祖国を滅ぼすことをもいとわぬ、その息子。
 シェオルがはっきりそう明言したわけではない。だがおそらくそうなるだろう、と容易に推測できる。そうでなければ、たとえなにげなくでも、これから主君が姻戚関係になろうという国に対して、武力を誇示する理由が、ない。
 顔は似ているところがあまりないように思えたが、シェオルは間違いなく兄エルトリオの息子だと、強く感じる。その、一見まともに思える思考の陰に潜む破滅的な狂気が、同じ波長を持っている。
 明日の式に備えて眠りにつかねばならない時刻はとっくに過ぎていたが、クラビウスはこれからのことを思い、なかなか眠れそうになかった。




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お話の続編はpixivへ。→王の英断(前編)







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