''【人は何を奇跡と呼ぶか】''

人は何を奇跡と呼ぶか




 正気を取り戻したピサロを一行に加え、地底世界から戻って、一週間。かくして再びロザリーヒルを訪れた勇者一行は、住人たちに熱狂をもって迎えられた。
 以前と変わらぬ様子のピサロの存在が、彼らには、ことのほか喜ばしいことのようだった。ここに住んでいる者たちの中には人間を敬遠する者が多いが、その功績の大きさか、最初に訪れたときよりはるかに友好的に接してくれている。
 屋敷に戻ったピサロとロザリーの顔をひとめ見ようと訪問者が引きも切らぬ中、ユーリルたちは、村にある唯一の宿屋で、各自に部屋を割り当てて、それぞれ休息に入った。
 同室の神官が静かな寝息を立てる中、ユーリルはそっと部屋を抜け出した。泊まる際、宿屋の主人に、夜間の世話までは不要、と言ってあったので、廊下には控える人影もない。無人のカウンターの前を通り、宿屋を出る。
 昼間は賑わっていたが、こんな夜中ではさすがに出歩く者もいないようだ。辺りから聴こえてくるのは、かすかな虫の声だけだった。目的もなく、そのままぼんやりと夜道を歩く。
 今夜は新月のはずなのに辺りはどこかほの明るい、そう思って見上げた先の空は、満天の星に埋め尽くされていた。世界中を見て歩いた目にもその光景は壮大で、大きく息をつく。
 ひらけた場所に出ると、ごう、と風が髪を吹き抜けた。その温度は少し冷たく、ユーリルは思わず身震いをする。
 通りかかる者もいなさそうな奥まった場所に、草むらがあった。海が近いのか、潮の匂いがする。進んでいくと、波が打ち付けられる音が聞こえた。崖だ。降りられる高さではない。そのままそこに座り込み、目の前に広がる海を見つめる。
 これでよかったんだろうか。
 ふいに、そんな考えが脳裏に浮かんだ。思い出すのは、世界樹の木で得たもののことだ。千年に一度ともいわれる、かの花の奇跡。失われた命を、戻せるほどのもの。それを知ったときに、真っ先に考えたのは、シンシアのことだった。
 迷わなかったわけではない。とっくに諦めたはずの、彼女の命。取り戻せるかもしれない、その可能性を目の前にちらつかされたとき、ユーリルは、はっきりと自覚していた。自分の中の黒い部分が、呪いのように全身に広がっていくのを。
 彼女を取り戻したかった。どんなことをしてでも。そう、たとえ、共に戦ってきた仲間を裏切ってでも、この手に、彼女を取り戻したかった。他の誰もが、納得しなくても。他の誰もが、許さなくても。
 だけどユーリルはそうしなかった。彼女がそれを望まないことを、知っているからだ。他に優先すべきことを無視してまで生き返らせられることなど、決して、彼女は、望みはしない。それをよくわかっているからこそ、ユーリルは彼女を選ばなかったのだ。
 ふいに、足音が近づくのが聴こえ、ユーリルは携えていた短剣に手をかける。
「……ユーリル様?」
 少し距離を置いた場所から、遠慮がちに声がかけられた。その細い声がしたほうに視線を向けると、金の巻き毛を夜風にたなびかせたエルフが、こちらに向かってくるところだった。敵ではないことを確認し、彼は短剣から手を離す。
「……ロザリー」
「こちらにいらしたのですか」
 ほっとした声で言い、ロザリーはさらにこちらに歩み寄ってきた。だがユーリルは相手の名を呼んだきり、次の言葉を発することもなく、ただじっと彼女を見つめる。
 ロザリー。エルフの女。
 そう、あのとき、選んだのは彼女の命だった。
 彼女が殺されたことで、あの男は狂った。自分自身を見失うほどに。
 狂い、そして、手を出すべきものではないものに手を出し、自らをさらに悪しきものに変化させ、この世界を壊し始めた。
 狂った男を目の当たりにして、対峙する全員が、その瘴気に怯んだ。凶悪なまでに肥大したデスピサロの瘴気は、ユーリルたち全員の身体を竦ませ、精神を蝕んだのだ。あの場はもう、逃げるしかなかった。
 そして、勝てる見込みの少ない敵を目の前にして、彼らは賢明に考えた。戦わなくてもことをおさめられる途はないか、と。
 その狂気の原因を、もし、取り除くことができるなら。ロザリーを、生き返らせることができれば。この化け物は…この男は、正気を取り戻すかもしれないと。そう考えた上での大胆な選択だった。
 そして、賭けた。奇跡に。
 目論見は大成功だった。結果、あの男は自分を取り戻し、今は共に他の敵を倒すべく、こちら側にいる。
 軽く息をつき、ユーリルは、何事もなかったかのように、ロザリーに向けていた首を元に戻した。そしてまた海を見つめる。どうやら会話をする気はないようだ。 
 黙りこんで顔さえこちらに向けてはくれない青年に話を切り出しかねたのか、エルフの少女もまた黙ったままだ。顔がかすかに緊張している。
「…何か、用?」
 しばらくのち、そう声をかけられて、ロザリーはほっとしたように笑顔になる。いいえ、と首を振り、だが言葉は続く。
「今の時季、夜風は冷とうございます。長く当たってはお身体を損ないますわ。どうぞ、お部屋にお戻りになって下さいまし」
 そう案じる声に、青年の心が動いたようでもなく。
「……いいよ。大丈夫だからひとりにしといて」
 素っ気ない答えが返るばかりだった。
「でも」
「いいから放っといて」
 なおも声をかけた彼女に、ユーリルはことさら面倒そうに言い放った。それに何か違和感を覚えたものの、ロザリーは食い下がる。夜風程度では、とも思ったが、体調は万全にしておかねばならない。それはこの過酷な旅においてもっとも重要なことだ。
「ですがユーリル様、」
「…ロザリー、悪いんだけど」
 言いかけたのを遮って、青年はゆらりと立ち上がる。そしてゆっくりと、相手のほうに向き直った。
 は、とエルフは息を呑んだ。彼の声は、苛立ちが滲んでいた。その周りの空気が冷やかに揺らいだのを感じ、ロザリーは身をすくませる。
 だがすぐに我に返ったのか、ひとつ深呼吸をして、ユーリルはゆっくりと顔を上げた。
「あまり僕に構わないでくれ。…君を見ると思い出すんだ」
「…え?」
「僕の幼なじみさ。彼女は君と同じ、エルフだった」
 意外な話に、ロザリーは軽く目を見開く。だった、という過去形が気になったが、質問を返せる雰囲気ではない。だがユーリルは訊かれる前に自分から話し出した。
「幼なじみといっても、エルフだからね。僕が子供の頃からその姿は変わらず、母のようであり、姉のようであり、妹のようでもあり…僕にとって一番大事な存在だった」
「ユーリル様…」
「だけどあの日、彼女は僕の身代わりになって殺された。…ピサロの手先にね」
「! そん、な」
「命令したのはピサロだけど」
「……、っ、ユ、」
 ユーリルはロザリーのほうへと歩き、数歩手前で立ち止まった。
「……昔話をしようか、ロザリー」
「ユーリル、さま、」
「多分、君も少しだけ知ってる話だと思うけど」
 ふ、と微笑んだその顔は、今までに見た誰かの笑顔の中で一番、昏いものだった。悲しくて、おそろしい。笑っているのに、笑っていない。そんな顔だ。ロザリーは背中に冷たいものが流れるのを感じた。
「僕はね、山奥の小さな村で育った。村から出ることはできなかったし、両親も本当の親じゃなかったけれど、僕は幸せだった。男も女も色んな人がいてね。みんな、僕をかわいがってくれて、そして厳しく、色んなことを教えてくれた」
 ただ安穏と過ごしていた、あの日々。歳だけは十六を越えても、まだまだ子供だった。その場所が、そこで共に暮らす彼らだけが、自分の世界のすべてだった。この暮らしが、ずっとではないけれど、それでも平和に続くものだと思っていた。
「ある日、宿屋の主人が村の掟を破って、山で迷っていた旅人を村に入れた」
 宿屋といっても、形だけのものだった。あの山奥の村には、訪れる者もおらず、また迷い込んでも、シンシアに記憶を消されて追い出される。それを徹底していたからこそ、ユーリルは魔族の目から逸らされ、護られていたのだ。
 だが以前宿屋を経営していたその男は、自分の天職を思い出してしまい、つい、その旅人を泊めてしまった。
「そしてその夜、惨劇が起きた」
 見たこともない魔物が、群れをなして村を襲ってきた。建物は焼きつくされ、村人たちは次々に殺されていった。ユーリルは、幼なじみに言われるまま、手を取られて共に逃げた。
 村の隅に据えられていた地下の物置に隠れていたが、外から聞こえてくる戦いの音に、次第に焦りが募っていく。こんな小さな集落では、見つかるのも時間の問題だ。
 いや、そうではない。そういう問題ではないだろう。自分も戦わなければ。皆が酷い目に遭っているのに、自分たちだけこんなふうに隠れているなんて。
 彼女にそう訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。ただ黙るように言われ、いつもの彼女と違う鬼気迫る様子に、ユーリルは黙るしかなかった。
 魔物の声がすぐ近くに聴こえ、絶望感で手足が震える中、突然、彼女が何か言葉を口にし、ユーリルに姿を変えた。彼が驚いている間に、奥の壁が動いた。そして彼女は、ユーリルも知らなかった隠し扉の向こうに、彼を閉じ込めた。
彼女が唱えたのは、形態模写の呪文だった。エルフの間に伝わる、古い呪文。ユーリルはその呪文の存在を、旅のあいだに知った。世界樹のそばで暮らすエルフによって。彼女は様々な呪文を知っていて、そのいくつかを教えてくれたが、その呪文だけは何故か、存在すらユーリルに教えなかった。
「しばらくして、鈍い音が聴こえた。何度も、何度も」
 それが聴こえるほどの距離。意味するものは、壁のすぐ向こうで、何かが起こっているということ。
「それが、剣が身体を貫いて肉が裂かれる音だと気付いたのは、その音に合わせて呻く『自分の声』が、聴こえたからだ」
 つまり、自分に姿を変えて留まった彼女の身に、それが起こっているということだ。
「そして、誰かの声がきこえた。『デスピサロ様、勇者ユーリルを仕留めました!』…その言葉で、惨劇は締めくくられた」
 ロザリーが青ざめる。口元を抑えた手が、震えている。
「この扉の向こうに行かなければ、そう思うのに、身体が動かない。助けなければ…彼女を守らなければと思うのに、腕も足も、全然、動かないんだ」
 あのときの恐怖。焦燥。そして絶望。どんな言葉でも、言い表すことなどできない。
「どれくらいそうしていたのか分からない。そのあと気を失って…目が覚めて、そしてようやく、僕は扉の外に出た」
 気を失っていたのはそう長い時間ではなかったようだった。心身の疲労よりもこの状況への焦燥感が勝ち、すぐに目が覚めたのだろう。
 だが身体が動くようになった安心感はすぐに、これから目にするだろうものへの恐怖に変わった。また身体が震えだす。
「壁の向こうにあったのは、大きな血だまりだけだった。彼女の身体は、見当たらなかった。引きずったような跡と、血の滴った跡が残ってたから、多分、あいつらが…魔物たちが、運んでいったんだろうね」
 事実、それを裏付けるように、デスパレスには、『勇者』の墓標が建てられていた。
「彼女の…『僕』の遺体を見るまでは、絶対に、彼女を諦めたくなかった。もしかしたら死んでないかもしれないって、まだどこかで生きてるかもって、思っていたかった。…今はもう、ちゃんと現実がわかってるけど」
 一番大事な存在がそんな目に遭った、それだけでも、自分にとっては耐えがたいことだった。だが、本当の地獄はそのあとだった。物置を抜け出し階段を登ったとき、世界は激変していた。
「あの光景は忘れられない」
 目の前に広がっていたのは、血と、炎と、煙だけの世界。
「…いや、そうじゃない。忘れるものかと思ったよ」
 老魔術師に教えられた、地獄というものが本当にあるのなら、まさにそれだろうと思った。
「僕は、焼け焦げた臭いと血の海の中を、生きている人はいないか、隅々まで確かめて回った」
 声が一段低くなった。ロザリーが息を呑む。ユーリルの表情は、能面のようになっている。
「ロザリー、君は見たことがあるかい?」
「…なにを、ですか?」
「人間の、潰された頭を、さ」
「……っ、」
「ねえ、どんな気分だと思う? ちぎれた手足、腹から飛び出した内蔵、むき出しの骨、焼けただれた顔。大事な人達の、そんなのを、見せられたらさ。…ほんの少し前まで、生きていた人間だったのに、今はもう人の形をとどめてもいない、ただの肉の塊となってしまったものを目にしたときの、その気持ちは…どんなものだと思う?」
 ひっ、と小さく悲鳴をあげて、ロザリーは両手で顔を覆った。
「僕はそれまでに、そんなものを一度も見たことがなかった。村で人が亡くなったことは、なかったから。死ぬってことがどういうことなのか、知らなかったんだ。なのに最初に目にした『死』は、およそ人間の尊厳というものを、根こそぎ剥ぎ取ったものだった。そんなものを見せられて、よく正気を失わなかったものだと、自分でも思うよ」
 そこにあったのは、知らない者達の亡骸ではない。村とも呼べぬほどの小さな集落で、共に暮らし、自分を慈しみ、厳しく鍛え、育ててくれた者たちだ。
 つい先刻まで自分に剣の稽古をつけてくれていた人が。魔術を教えてくれていた人が。食事の用意をしてくれた母が、帰宅して話をしてくれていた父が。無惨な姿で、横たわっていた。
「まだ、温かいんだ。もう死んでしまってるのに、体温だけが残ってるんだ。肉片をまとっただけの骨になってしまったのに、それでもまだ温かいんだ」
 言って、ユーリルは泣きそうな顔になる。
 最後まで彼が魔物にみつからなかったのは、彼があの場所にいることを、誰ひとりとして言わなかったからだ。彼が生き残ることができたのは、シンシアが、父母が、皆が、彼を守るために、命をかけて戦ったからだ。誰もかれもが、ユーリルが生き残ることを願い、希望を託し、散っていった。
「絶望にあえぎながら、それでも誰か生きていないかと…隅から隅まで探した。だけど誰も息をしていなかった。ああ、そうだね、呼吸ができる器官が存在しない身体になっているものも、あったよ。…そこにあるのはもう、命ある人間の姿じゃなかった。そして気づいたんだ。僕は、全部を、なにもかもを、うしなったんだってことに」
「…ユーリル、さま、」
「今まで生きてきた世界のすべてを、粉々にされたんだ。ピサロにね」
「………、っ!」
 声も出せず口元を手で覆うその目から、涙が零れ落ちた。それは彼女の身体から離れた途端、赤い宝石となって、いくつも大地に散らばっていく。
「僕は、あの男に、自分の世界のすべてを、壊されたんだ」
「……、……っ、!」
 大地に散らばる赤の上に、更に赤が積み重なる。
 彼女に言ってもどうなるものでもないと、わかっている。だがユーリルは言わずにはいられない。あの男に一番近い位置にいるのは彼女だ。だから言わずにいられない。これがただの八つ当たりだとわかっていても。
 静かな声の中に満ちた、激しい怒りと悲しみ。それを叩きつけられたロザリーは、なお涙を流しながら、青ざめて震えている。
 あの惨劇の日。魔物が立ち去ったあと、皆の亡骸をすべて集めてまわった。その間、ユーリルの涙が止まることはなかった。浄めの炎で焼く間も、ずっと。身体の水分がすべてなくなるのではないかと思うほど、とめどなく、涙は流れ続けた。
 やがてすべてが燃え、灰となり、炎が消えて、わずかな煙だけが残る世界となっても、ユーリルはそこから動かなかった。動けなかった。
 そのまま眠ってしまったときに、夢を見た。
 泥の中を手探りでゆくようだと思った。数歩先さえも見えない視界。もがくほどに沈んでいく足元。吸い込めば肺に流れてくるのは、重く苦く粘ついた毒。
 息苦しさに目が覚めて、変わり果てた故郷が目に入り、悪夢が終わっていないことを思い知らされた。
 そういえば、とユーリルは思い出す。今日、自分は十七歳になるのだった。皆が祝ってくれるはずだった。あと少し経てばこの外に出て世界を見られることを、とても楽しみにしていた。
 だが今となっては、そんなことはどうでもよかった。誕生日など、誰にも祝ってもらえなくてもいい。外の世界に出るのが、ずっとずっと先になってもかまわない。
 僕の世界を返してくれ。僕の大好きな人達を、返してくれ。この光景が、嘘であると、夢なんだと、誰か言ってくれ。言ってくれたらきっと、自分はそれを信じるだろう。
 急激にのしかかる、現実味のない現実。だけど本当はわかっている。全身の感覚が、これは紛れもない現実だと、悟っている。
 この悪夢を、終わらせることはできるのだろうか。すべてが終わり、この場所に再び花が咲き乱れる、そんな日が、いつか来るのだろうか。
 たった今始まったばかりの、地獄のような悪夢。これを背負い、いつ終わるともしれぬ旅路を、自分は征かねばならない。ひとりで。
「そして僕は自分に誓ったんだ。元凶である、『デスピサロ』をこの手で殺すまで、決して、あきらめないとね」
 ユーリルの瞳が昏さを増す。すべてを見ているような、何も見ていないような眼が、ロザリーの背中に、再び寒いものを走らせる。
 山奥の村で、初めて出逢った、あの日。迷い込んだ旅人の男。フードの奥で揺らめく、鈍い紅。何故あのときに、気づかなかったのか。
 悔しかった。あの眼を見たときに、一瞬でもきれいだと感じた自分が、悔しくてならなかった。その紅に、禍々しいと気付かずに魅入られた自分が、ひどく情けなかった。
 この男が、自分の世界のすべてを壊し尽くすと知っていたら。あのときに、知って、いたのなら。
 …知っていたらどうなった? どうにかできたか?
 どうにもできない。まだ何も力を持たない、未熟な自分では、何もできなかっただろう。村があの男に見つかったときに、自分のこの命運は決まったのだ。
 絶対に殺すと、決めたはずだった。自分に誓ったはずだった。なのに今、あの男は味方として自分たちの傍にいる。
 否。味方などであるものか。利害が一致したから今は共に戦っているだけだ。自分とあの男は、決して相容れない存在だ。味方などであるはずがない。そんなことは、絶対にあってはならないことだ。
 無意識に握り込んだ拳から、血が一滴、したたり落ちた。爪がてのひらにくい込む痛みにもかまわず、ユーリルはなお、拳を握り続ける。
 ずっと聴いていたロザリーは、あふれる涙をどうにか止め、あえぐように何度か深呼吸をする。ユーリルの手から落ちた血を見ても、その行動を止めてやることさえできない自分が、情けなく、悔しかった。
「……申し訳、ありません」
 震える声で、やっとそう口にする。
「謝る必要はないよ。君が悪いわけじゃない」
 どうでもいいことのようにユーリルはそう返す。だが。
「いや、君のせいかな?」
 今度は責めるようなことを言う。悪戯を思いついた子供のような顔だ。それでも口調は、どうでもよさげではあったが。
「ねえロザリー」
「…、はい」
「……あいつが僕を殺そうとしてたこと、知ってたの?」
 訊けば、エルフは首を横に振った。
「詳しいことは、知りませんでした。ただ、ピサロ様には、魔族の王として、お役目がある、ということしか」
「知ってたら、止めた?」
「…え、」
「まだ十七にもならない子供を殺すのがあいつの『お役目』だってこと、知ってたら、さ」
「………、」
 ロザリーは答えられなかった。応とも、否とも。
 エルフだからというだけで、流す涙がルビーになるというだけで、心無い人間たちに利用され、迫害されてきた自分だ。その時間はとても長かった。そしてとても苦しかった。どこかで人間がひとり殺されると知ったところで、何か感じることはなかっただろう。慈悲も憐憫の情も、とっくに麻痺してしまっていたのだから。
 答えることができないロザリーに、ユーリルがまた言う。
「たとえ知ってたとしても、君があいつの凶行を止めるべきだった、なんて言うつもりはないよ。もし君が止めたとしても、あいつはやっただろう? 僕の村を焼いて、みんなを殺して、僕も殺したよね? 魔族の王のお役目、っていう大義名分があるんだから」
 悪しき存在にも、事情がある。そしてそれは大概、正しく生きている人間とは、相容れない。こちらにとっては理不尽なことであろうとも、相手側にとっては、押し通すべき事情だ。そんなことは許せるはずがなくとも、そういうものなのだ。
 天空人を母親に持つというだけで、勇者などというたいそうな呼び名を押し付けられて安寧の日々から一転、修羅の途に放り込まれた自分は、ただもう、そう生まれついてしまった運命というものを、恨むしかないだけで。
 それでも、こんな思いをしても、彼女に出逢えたことだけは、感謝している。シンシア。彼女の存在は、ユーリルの中で、その命が失われてもなお、輝き続けている。彼女が命をかけて自分を守った、その悲劇ごと、ユーリルは今なお深く愛しているのだ。
 考え込んでいたロザリーが、あの、と切り出した。
「ひとつ、おたずねしてもよろしいですか」
「……なに」
「ユーリル様の、大事なかたのお名前は、何とおっしゃるのですか?」
 なにげない質問だった。だがそれは訊いてはならない質問だった。
「………なんでそんなこときくの」
「それは、同じ種族として、エルフとして、弔いの祈りを、捧げたい、と」
 瞬間、ユーリルの気が大きく乱れた。押さえ込まれていたものが爆発したように、一気に広がっていく。
 それにあてられて、ロザリーが小さく悲鳴を上げる。
 ああ、これは怒りだ。途方もない怒りだ。だが何故。何が彼を、こんなにも怒らせたのか。
 爆風にあてられながら、彼の逆鱗に触れたのだ、ロザリーがそう悟ったときには、我に返ったユーリルが、気を収めていた。感情の激しい揺れを隠せなかったことを恥じるように、小さく舌打ちをする。
「必要ない」
 数分の時間をおいて彼の口から吐かれたのは、背筋が凍るほどの、冷えた声だった。
「君の祈りはいらない。彼女の名前も、君が知る必要なんてない」
「ユーリル、さま、」
「ねえ」
 ふいに顔を覗きこまれ、思わず息を呑む。目の笑っていない笑顔だ。
「僕の気持ちをね、わかってほしいとは思ってないんだ。だけど」
 ユーリルの顔から表情が消えた。
「もう放っておいて」
 声に、殺意が混じる。じわりと身体にまといつく。知らず震えだす身体を、賢明にロザリーは押さえた。
「っ、あの、…私……っ、」
「この話は二度としない。君がほんの少しでも僕の聴こえるところで口に出したら、その時は、覚悟して」
 有無を言わせない口調で、ユーリルは話を終わらせる。
「……、はい」
 か細い声でそう言うのが、やっとだった。ロザリーは頭を下げ、消え入りそうな声で、失礼しますとだけ言い残して、逃げるようにその場から去った。



 重い足取りで屋敷に戻り、ロザリーは長椅子に座り込んだ。
 つい数十分前、窓辺から外を眺めたときにユーリルが歩いているのを見かけ、思わずあとを追った。あんなことになるとも知らずに。
 自分の行動は…いや、自分の存在そのものは、ただ彼の傷を抉っただけだった。知らなかったとはいえ、なんということをしたのだろうか。彼から向けられた感情はひどく痛々しく、身を切られるほどにつらいものだった。
 足音に気づいたそのとき、入るぞ、という声掛けと共に、ピサロが部屋に入ってきた。
「旅支度は整ったか、ロザリー」
「ピサロ様…」
 そうだった。ここには、一時的に寄っただけだった。あの日、息を吹き返したあと、ロザリーは取るものもとりあえず勇者一行とともに地底世界に向かった。ピサロが戻った今、エビルプリーストを排すべくまだ旅を続けねばならないが、そのためには、それなりに備えがいる。旅慣れた勇者一行に世話になるばかりではいけない、そう思い支度を整えているところだった。…だが。
 ロザリーは静かに、心を決める。
「お前は何も案ぜずとも良い。すべて私が…」
「ピサロ様。私、ここに残ります」
 彼が最後まで言い終わらないうちに、ロザリーは決意を口にした。
「ロザリー?」
「共に征くことはできません。私はここで…お帰りをお待ちします」
 驚いたのはピサロだ。
「何を言い出すのだ、突然。許さぬぞ。また以前のようなことが起きたらどうする。お前に何かあれば、私は今度こそ」
「いいえ。私は行けません」
 言って彼女は毅然とピサロを見据えた。
 意見を変えないと悟ると、ピサロは、子供に言い聞かせる口調になった。
「…ロザリー。そばにいれば私が守れる。だが遠く離れていては何もしてやれぬ。あのような思いは二度と御免だ。だから」
「ユーリル様が」
 遮るようにその口から出た言葉が意外な名前だったのか、ピサロはひどく顔をしかめた。だが黙って続きを待つ。
「ユーリル様が、おっしゃったのです。私を見ると、喪ったかたを思い出してつらい、と」
「……喪った者?」
「覚えておいでですわね、ピサロ様。あのかたの故郷を滅ぼしたときのこと」
「……ロザリー」
 忘れるはずがない。大きな目的を成し遂げた、最良の日だった。少なくともあの時は。
「あなたは、討ち取ったはずの勇者が生きていたことを、ひどく驚いていらしたわ。それもそのはず、あなたが討ったのはユーリル様ではなかった。呪法で姿を変えた、あのかたの想い人だったのです。そのかたは、私と同じエルフの娘だった」
 そうか、と合点したようにピサロは頷く。形態模写の呪文は、ロザリーからきいていたため、存在を知っていたのだ。
「…最初に疑っておくべきだったな。その可能性を」
 よもや偽物などとは思いもせずに、勇者を討ち取って安心しきっていた自分が情けない。そう続けたピサロを、ロザリーが、きっ、とにらんだ。
「おやめください、ピサロ様」
 語気を強めてロザリーは言う。
「ユーリル様が生きておられたことは、結果的に、私たちにとってはこの上ない僥倖なのです。あのかたが生きていても殺されていても、いずれ、エビルプリーストはあなたに反旗をひるがえしたわ。そうして私は殺され、あなたは正気を失ったまま、人間たちの世界をすべて、滅ぼしたかもしれない」
 だから彼が生きてその選択をしたことは、自分たちにとって、最上の幸運だった。ロザリーは言う。
 自分は、この世界に、さしたる執着も愛着もない。何事も起こらず平穏に暮らせることしか、望んではいない。
 だが、誰よりも大事な彼が、正気を失ってみっともなく世界を滅ぼすなどということを、ゆるせるはずなどない。魔族の王であるピサロが、誇り高き王が、悪しき名だけを後世に残すようなおこないをするなど、ロザリーは、ゆるせなかった。決して。
「…何故、あの呪文は死してなお解けなかったのだ」
 独り言のような問いだった。機嫌の悪さを隠そうともしない忌々しげな口調だったが、ロザリーは臆することなく答える。
「魔法とは、魔力だけの問題ではありません。思いの強さに比例するのです。かけた本人が死ねば、大概は解けてしまう。でも、ユーリル様の想い人が自らにかけた模写魔法は、何があっても彼を守るという思いの強さで成されたものだった。だから彼女の魔法は、死んでも、解けなかった。『勇者』が姿を変えたエルフだと、あなたは気づかなかったでしょう。そういう意味では、あなたは彼女に負けたのよ」
 その物言いに、一瞬だけ頭に血が上ったが、彼女の意図に気づき、すぐに冷静に戻った。そして悔し紛れに言う。
「…ロザリー、私を怒らせるな」
「あら、図星だからこそ、お怒りになったのでしょう?」
 あなたが怒ったって私は怖くありません、とロザリーは口をとがらせた。
「奇跡というのなら…そのかたがユーリル様を守ると決めた想いの強さ、それこそが、ですわ。ピサロ様もご存じでしょう? エルフという種族は、人間や魔物より、ずっと感情が希薄なことを」
 自分の命を、存在をかけてまで誰かを守りたい、そんなふうに思うことなど、エルフにとっては、そう有ることではない。誰かに、何かに執着するには、とてつもなく長い時間か、あるいは、相当の衝撃が必要なのだ。
「私は、あなたに救われた。あなたが私を、あの苦しい状況から救ってくれた。だから私は、あなたに従って着いてきたの。…ユーリル様の大事なかたにも、あったのでしょう。命を懸けてもユーリル様を守る理由が」
 そしてそれは、命が尽きたくらいで消えるものではないほどの、強さだったのだ。
「あのときのことを…勇者を討つと決めたことを、責めるつもりはございません。それはあなたの、魔族の王としての、お役目だったのですもの」
 人間に迫害されてひどく弱っていたときのことを思い出す。彼は、そんな自分を救ってくれた。たとえ彼にとってはただの気まぐれでしかなかったとしても、彼女にとってはこの上なく嬉しいことだったのだ。
 あのときから、彼は誰よりも大事な存在になった。誰よりも慕う彼の、その役目を知っていたからこそ、誰かを殺すことであっても、止めることなどできなかったのだ。
「でも今は違います。私たちが今こうして再び逢いまみえたのは、あのかたのおかげなのですよ」
 言われ、ピサロは苦い顔になる。
 討つと決め、殺したはずの人間。だが勇者は生き延びた。その陰には、彼の大事な存在の犠牲があった。だが何の因果かユーリルは、今度は、ピサロが奪われた大事なものを、返してきたのだ。ロザリーという、この上ない大事な存在を。
「ユーリル様のお気持ちをお察しくださいませ、ピサロ様。あのかたはどんなにか、世界樹の花を、ご自身の大切なかたのために使いたかったことでしょう」
 彼がロザリーの命を戻したのは親切心でも復讐心でもない。ただの打算だ。そんなことはわかっている。だが何のつもりだったのかなど、関係ないことだ。ユーリルの働きによって彼女はよみがえり、化け物は魔族の王に戻った、その事実だけがそこにある。
「ユーリル様だけではないわ。他のかたがたにも、奇跡を起こしたいどなたかが、何かが、おありだったはず」
 父を殺された姉妹は言うまでもない。父王と自国の民が行方不明の姫も、然り。王宮戦士も、商人でさえも、なにがしかの、起こしたい奇跡があったはず。だが皆、その思いをのみ込んだ。世界を守るにはそれしかないと、ロザリーの命にはそれだけの価値があると、決断したからだ。
「自らの想いを押し殺してまで私をよみがえらせ、あなたを正気に戻してくださったあのかたのお気持ちを踏みにじるようなことは、どうかなさらないで。お願いです」
「………ロザリー」
 同じ種族の者を見たくないと言うほどにまでロザリーを厭うのは、大事な存在だったエルフの女性を失った、ユーリルだけだ。他の者たちの中には、彼女を連れていくべきだという意見の者もいるだろう。ピサロも言ったように、またなにごとか、彼女の身に起きないとは限らないからだ。エビルプリーストという脅威を完全に取り除くまでは、決して、油断はできない。
 それでも、この一行の要であるユーリルを尊重するのなら、自分は共に行くべきではないのだ。自分に命を返してくれた、彼のために。
「私なら大丈夫です。現状を嘆くだけで何もできなかったあの頃の私じゃありません。今はこうしてあなたが正気でいてくださるもの。ね?」
 そうでしょう? 言ってロザリーは花のように微笑む。
 儚げな外見とは裏腹に、こうと決めたら自分を曲げない女だった。無理に連れていっても、あとに不和が残るだけだろう。
 仕方がない。ピサロは大きくため息をつく。彼女と屋敷と村に、出来得る限りの護りを施しておかねば。
「ねえ、ピサロ様」
 ロザリーが彼の手をとる。
「…なんだ」
「ひとつだけ約束してください」
「…きけるかどうかは分からぬが、言ってみろ」
「もし…もし、また私に何かあっても、二度とあのようなことはなさらないで」
 そんな約束はできない、即座に言おうとしたピサロを、エルフの瞳が見据える。
 強い瞳だ。あのときの弱々しかった彼女ではない。名を呼ぼうとしたとき、また彼女が言った。
「上を向いて、胸を張って、毅然としていてください。あなたは、誇り高き、魔王なのだから」
 彼女が自分に望むものを理解して、王は目を細める。
「……ああ、わかった」
 お前の思う通りに。言ってピサロは、愛しい女をその腕に強く抱きしめた。



 翌朝。ロザリーが、自分はここに残ると一行に伝えたとき、多かれ少なかれ、皆が驚いた。理由をきかれ、足手まといになるから、と答えるロザリーの意志は固く、一行もまた、強く引きとめるようなことはしなかった。ピサロと話し合って決めたことなのだろう、自分たちが何か言うことではない。
 エルフの身を心配した姉妹が身を護る呪文や隠す呪文などを口々に教え、王女などは、男相手ならまずは急所を殴れ、などと教えている。男性陣が苦笑いする中、老魔法使いが、仕掛け攻撃とその注意点を紙に書き記し、とっくにそこの御仁がいろいろやっているとは思うがいざという時のために施しておけ、と手渡していた。
 平然としていたのはユーリルひとりだ。皆のやりとりに興味なさそうに、ついと顔をそむけた。
 関わりたくないと言った彼を尊重するように、ロザリーもまた、あえてユーリルに話しかけることをしなかった。このぶんだと別れの挨拶も必要ないだろう。
 ふいに視線を感じ、ユーリルはその先をたどる。紅の瞳が、こちらを見つめていた。
 昨夜、あの会話のあと、おそらくロザリーは自分から旅の離脱を申し出たのだ。ピサロはそれに、当然、反発したに違いない。結局折れたものの、その根底にあるのがユーリルとわかって、彼になにか言いたいのだろう。決定事項が覆るわけではなくても。
 視線はまだ外れない。ユーリルの意識を絡めとるかのように、紅の光がまとわり続ける。
 だが何か話す気にはなれない。
 今は、まだ。


 まだ話の尽きない一行を尻目に、ユーリルは村の出口に向かって歩き始めた。それに気づいた王宮戦士が、勇者殿どこへ、と声をかける。馬車に荷を積むと返し、ユーリルはそのまま歩いていく。


 その後。目的を達成してから十年が経過するまで、ユーリルが再びこの地を踏むことは、なかった。





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